2014年7月14日月曜日

人との相互関係から森林を理解する「森林環境史」

『森林文化論』で「人と自然がどのように関わってきたか」を学ぶ


 森林文化アカデミー クリエーター科で提供される『森林文化論』、今回は鳥取大学フィールド
サイエンスセンターの大住克博教授をお招きして、「森林環境史」について学びました。

 環境史を調べると、様々な分野がある。生態学はScienceというよりHistoryという説明から、
人と自然、人と森林がどのように関わってきたかを説明されました 。


 これまで歴史的にどのように生態が変化してきたかを無視して論じてきた森林生態を、森林環境
史として見てみる。


 学生さんも初めて耳にした「森林環境史」に興味津々。自然科学系から社会・人文科学系まで
横断した総合的な見方を学ぶ。   


 近畿地方の低標高域における温帯性針葉樹~特にスギ・ヒノキ~の存在と、そこから派生する
いくつかの問題について考える。

 針葉樹と言えば北方針葉樹林を思い浮かべるが、スギ・ヒノキ・モミ・ツガ・コウヤマキ・ヒバ・ネズ
コなどの温帯性針葉樹林。第三紀以前から反映してきた古い種が日本にはある。

 
 世界に生物の多様性が高い地域(ホットスポット)が13ヶ所あり、その筆頭が日本である。

 

 ヒノキは標高500~1000m、平均気温5~10℃に多いと思われがちですが、過去は低地にヒノキ
やスギが繁茂していた。特にスギの大木は日本海側に多くあった。

 京都周辺を見てみると、5000~2000年前はヒノキの大木があったと考えられ、約1000年前から
マツが増加してきた。


 現在残る木曽地方の天然生ヒノキ林が有名であるが、台湾には1000年以上のヒノキ林が今でも
見ることができる。


 次ぎに、過去の「草地」の利用から現在の森林の成立を考える。
   『草山』・・・芝山、草山、萱山、柴山、 秣山、笹山・・・・近世における草山の拡大。
           明治初期頃には国土の10%以上が草地。


 山の柴を刈って、牛馬で鋤き込む。山は緑肥を得るための刈り柴山として、牛や馬は山のバイオ
マスを肥料化(牛馬糞利用が主目的で、労働が主目的でない)。


 江戸時代の里山は森林ではない。「草山」、「柴山」だった。耕地面積の5~10倍の草山が必要
だった。
 
 明治初期から大正期、どれほど柴刈りや草刈りが重要で、山は木材利用よりも緑肥利用の価値
が高かったことがわかります。

 100戸の住民が50haの耕地を管理するには、緑肥となる刈り柴地が250~500ha必要で、薪炭林
はわずか30~35haで充分。


 里山は薪炭林のイメージが強いが、それは明治以降。

 人口が都会に集中し、鉄道が敷設されると、「木炭」の利用が高まり、薪炭林が脚光を浴びる。
しかし河川沿いの耕作地の周辺は、緑肥を採るための刈り柴地が里山の風景をつくり出してい
た。

 コナラは萌芽性が高いが、クヌギやアベマキとの決定的な違いは結実性。
 これが二次林でコナラが優占する理由となっている。


 人工林を見てみると、吉野や尾鷲のような密植地以外に、木頭や飫肥などのように疎植な林業
地もある。
 疎植地は「木場作」地で、刈り柴を徹底的に利用した場所でもある。つまり、下刈り自体が撫育
目的ではなく、下草利用が目的であったところもある。

 
 多くの森林は人の関与の歴史を通して、地理的な空間パターンを形成してきたもの。
現在の森林を理解するためには、人の利用の影響を充分考えることも重要なのが理解できまし
た。
 
 以上報告、JIRIこと川尻秀樹でした。